大判例

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松江地方裁判所 昭和47年(わ)185号 判決 1973年3月27日

被告人 角田勝美

昭二四・一一・一七生 サッシ工

主文

被告人を懲役一年に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和四七年一一月一二日午後六時ころから雇主の永島敏治と飲酒したのち同人を自宅に送り届けたうえ、翌一三日午前一時三〇分頃島根県八束郡東出雲町大字揖屋金山一、八六八番地先町道金山五反田線(以下これを町道という)を北から南に向つて軽四輪乗用自動車を運転して帰宅途中、右町道西端に積んであつた越野敏夫所有の藁束(約二、五〇〇束)の一部が町道路上に崩れ落ち、通行の邪魔になつていたため、その藁束を取除こうとして停車したが、酒に酔つていた勢いで腹を立て、町道より約二・五メートル東側水田内に入つたところに設置してあつた通称「稲はで」(幅一・七メートル、長さ六四・二七メートル、縦木二八本、支木五六本、横竹約七〇本を使用した五段造りのもので材料時価一万円相当)に架けてあつた浜田忠光所有の稲束約三、〇〇〇束(時価約一四万円相当)を右藁束の持主のものと思い腹いせにこれを焼き払おうと決意し、所携のマツチ二本を一度にすつて右「稲はで」中央部辺りに架けてあつた稲束の穂先に点火して右稲束ならびに「稲はで」を焼燬して損壊したものである。

(証拠の標目)(略)

(法令の適用)

被告人の判示所為は、刑法第二六一条に該当するところ、所定刑中懲役刑を選択し、その刑期の範囲内で被告人を懲役一年に処することとする。

本件犯行は、農民の一年間の汗の結晶とでも言うべき稲束を一瞬のうちに灰燼に帰せしめたもので、その動機、犯行態様共に悪質で平穏な農村社会に与えた不安は大きいが、被告人は被害弁償を済ませ、更生を誓っているなど諸般の事情を考慮の上同法第二五条第一項を適用してこの裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予することとし、訴訟費用については刑事訴訟法第一八一条第一項本文により被告人に負担させることとする。

(建造物等以外放火罪についての判断)

本件公訴事実は、「被告人が判示の如き経過で判示「稲はで」ならびにこれに架けてあつた稲束約三、〇〇〇束を焼燬し、よつて右「稲はで」から西方約六・九メートルにあつた前記越野所有の藁束および同約九メートルにあつた石原芳次所有の雑木の山林、さらにこれに近接する周囲の山林に延焼する危険を発生せしめ、もつて、公共の危険を生ぜしめた。」というのであつて右は刑法第一一〇条第一項に該当する、というのであるが、当裁判所は、未だ公共の危険が生じたとは認められないと判断し、器物損壊罪の限度で認定したのであるから、以下この点について説明することとする。

ところで刑法第一一〇条第一項にいう公共の危険を生ぜしめたとは、放火行為によつて一般不特定多数人をして、その生命、身体又は財産の安全を害する虞があると感ぜしめるに相当な状態に達したことをいい、その判断は発火当時における諸般の事情を基礎にした合理的判断によるべきであると解する。そこで本件発火当時の客観的状況を詳細に検討することとする。

(一)  本件犯行現場の一般的状況

前掲実況見分調書、検証調書ならびに昭和四七年一一月一三日付「稲架火災事件発生報告について」と題する司法警察員作成の捜査報告書によれば、本件犯行現場は、国道九号線の島根県八束郡東出雲町大字揖屋一、二〇三の二有限会社石倉産業先十字路から幅員四・四メートル未舗装の町道金山五反田線を約一、二三〇メートル南進し右町道の東側に接した農業浜田忠光所有の水田(約二〇アール)内である。現場一帯は、東西を山林ではさまれ、南方から北方にかけわずかの落差を伴う幅約一〇〇メートル、長さ数百メートルの帯状にひろがる山間の水田地帯であつて、町道に沿つて民家はなく、夜は外灯もない暗い場所で、本件「稲はで」から南東目測約三〇〇メートルに角田喜一方家屋他農家一四世帯が点在し町道の通行者は殆んど同地区住民に限られて昼夜共極めて少ない。右町道の西側に沿つて川幅約三メートルの市ノ原川(水深一五ないし三五センチメートル、岸までの高さ一・七メートル)が南から北に流れ、その西方は、揖屋町四七二番地石原芳次及び同町八四七番地の一組嶽茂所有の山林に接し、その山裾には熊笹が密生し、中腹までは杉が点在する雑木林、山頂付近は松林であるが、右雑木の枝の一部は市ノ原川を通り越して町道の上まで張り出している(町道からの高さ四ないし五メートル、「稲はで」の中心からの水平至近距離五・一メートル)。「稲はで」の北端から水田をはさんで東方六五・六メートル(至近距離)の地点で東方山林に接している。被告人の点火地点は、「稲はで」の北端から約二五メートル南方へ寄つた辺りに架けてあつた稲束であるが、右点火地点のほゞ真西の町道上の西端に南北に長さ九・七メートルに亘つて越野敏夫所有の稲藁束約二、五〇〇束が整然と積み重ねられ、その一部約一〇束位が町道中央部に崩れ落ちており、点火地点からの至近距離は四・八〇メートルである。

(二)  「稲はで」の焼失状況

「稲はで」の構造ならびに稲束の架設状況は判示のとおりであるが(尚「稲はで」の高さは地上約二メートル位である)、その焼失状況をみるに、縦木は南端の一本及び北端の二本を残して稲束と共に完全に焼失し、縦木を東西両側から支えている支木は稲束に接していた付近のみ焼失しているのみで殆んど全部が焼け残つている。横竹ならびに稲束は完全に焼失して原形を認め難い程に灰化し、「稲はで」の南端付近において東方四~五メートルに至る間に焼屑が散乱している他は、元の「稲はで」の位置に灰がそのまま落下して堆積している。

(三)  焼屑の飛散状況

「稲はで」の焼失状況は右(二)に認定したとおりであるが、前掲実況見分調書(実況見分を行なつた日は犯行日である)によれば、「稲はで」の焼失した際に生じたと思料される藁灰が「稲はで」の北方目測約一〇〇メートルまで飛散しており、さらに浜田忠光の検察官に対する供述調書(昭和四七年一二月一日付)には「稲はで」の南方約三〇メートルならびに町道上にも灰が散つていた、との記載がある。当裁判所の検証調書(検証を行なつた日は事件から二ヶ月以上隔てた昭和四八年二月三日である)によれば、検証時には焼け跡に存した縦木、支木、灰等は既に撤去されておつたが、「稲はで」の存した田が町道と接する路肩部分の叢の北半分のところどころに竹のもえかすと思われる炭化物が散在していたことが認められるが、焼け跡の東側に、右町道に並行して有線、電話線、電灯線がその順に引かれているが、右有線の支柱(「稲はで」の南東方一三・七メートル、南端から北東方一三・八メートルのところに位置する二本)ならびに電話線電柱(「稲はで」の北端から北東方約一四メートル)の各西側面にはなんら燻焼の跡は見られず、さらに「稲はで」の北端から東北方一八・六メートルのところにある藁束の積み重ね(長さ約三・三メートル、高さ一・二メートル――尚これは実況見分調書添付の写真と照合すると、事件当日から存在していたものと同一のものと認められる)の表面は熱又は火の粉によるものと認めるに足る異常は見当らない。

(四)  事件当日の気象状況

前記司法警察員作成の捜査報告書には、当地方には犯行前日に降雨があつたこと(但しその量は定かでなく、被告人の当公判廷の供述は降雨を否定している)、更らに事件当夜は強い露がおり、相当乾燥していた筈の稲束もしめりが強かつた、との記載があり、さらに昭和四七年一一月一四日付松江警察署長から松江地方気象台長宛の電話録取書によれば、昭和四七年一一月一三日午前三時現在の気象状況は「天候―晴、風速―東の風一メートル、湿度―九六パーセント、温度―七・三度」で強風その他異常な気象状況であつたとは認められない。

〔結論〕

以上の認定事実をもとにして判断するに、まず第一に本件「稲はで」ならびに架けてあつた稲束の焼失痕が周囲に拡乱することなく元の「稲はで」の存在していた位置に止まつていることから考えると、焼けていくうちに縦木、横竹と共にそのまま地上にどつさりと落下したものと認められ、さらに支木は稲束に接する部分を除いてはほぼ現況のままに存していたことからみると落下物が炎をあげて炎上する程の火力で焼失したものとは認められず落下してからはくすぶりながら焼えていつたものと推認される。第二に当日はほぼ無風状態に近く、点火地点から南北に向けて延焼したものと認められ、山林特に西側の山林の方に向つて火の粉が飛散した形跡は見受けられず、北方又は南方に飛散した藁灰の量も定かでないうえ、その距離も民家には遠く及ばず、民家への飛火の虞は全く見受けられない。第三に、「稲はで」の火がなんらかの原因で直接西側の山林に、或いは町道上の藁束を経て西側山林に飛火する虞の有無について検討するに、西側山林に藁灰等の焼屑が飛散した状況が見当らないことは右に述べたとおりであり又当時の風位、風力、火力の程度では容易にそこ迄は考えられない(仮りに藁灰が飛散したとしても雑木は生木であり、熊笹も枯れきつてはいないので当時の気象状況の下では着火するかどうか疑わしい)。次に町道上に藁灰が飛散していた点について考えるに、その量ならびに飛散状況は明らかでないが、町道上の藁束に飛火した形跡は全く見受けられない。仮りに藁束に着火し藁束が炎上したとしても西側山林との間には市ノ原川が流れており、さらにその上にはみ出ている雑木の枝は四~五メートルの高さがあるのであるから直ちに山林に着火するかどうか疑わしい。問題は「稲はで」の材料に使用されている横竹が焼けるに従つて節の中の空気の膨脹するに伴い、はじけた横竹の一部分が藁束又は山林に飛散して着火するかどうかである。この点につき犯行直後の実況見分では飛散した竹は発見されていない(但し越野良子の司法警察員ならびに検察官に対する供述調書によれば、犯行直後の午前二時頃パチパチという竹がはじけるような物音を聞いたとの記載があるが、これをもつて焼けた竹が周囲に飛散したものと即断することはできない)。しかし二ヶ月以上経過した際施行された当裁判所の検証において叢の中に竹の焼けたものと思料される炭化物が発見されたが、当時は既に縦木、支木等が撤去された後であり、右炭化物が焼失当時から存していたものか(実況見分調書には記載がない)、撤去の際にでも落ちたものか定かでないが、仮りに焼失の際はじけて飛んだものであるならば、落下時には火がついていたことは推察に難くないが、周囲がこげた形跡はなく、他への着火能力は至つて軽微であると考える他はない。その上検証調書添付の写真(No.八・九)によつて認められる状態に照すと枯草の量少なくかつ短かく、これが逐次燃えたとしても路肩に続く町道上には藁束又は山林へと延焼する可燃媒介物はなんら存しないのであるからこれ又山林へ延焼する虞はない。町道上の藁束に直接焼けた竹が飛散した状況はもとより見受けられないところであるが、風力によつて飛散する藁灰とちがつて点火地点から四メートル以上、「稲はで」の中心からは五メートル近く隔てたところから竹が自力で飛散するかどうかも極めて疑わしい。してみれば「稲はで」から町道上の藁束にそして又西側山林へと延焼する虞は客観的に全く存しなかつたものと解するのが相当である。第四に、東側の電柱、藁束には飛火の形跡は全くなく、いわんや東側山林に飛火した形跡は見受けられないのである。

以上を綜合して判断するならば、東側の山林はもとより西側の山林、南方三〇〇メートル近く隔てた民家等への延焼の可能性が存しなかつたことはもとよりその虞もなかつたと解するのが合理的であると認められ、それは即ち未だ公共の危険が発生したとは認め難いということに帰着する。よつて建造物等以外放火罪は成立しない。(尚本件起訴に係る建造物等以外放火罪の事実と当裁判所が認定した器物損壊罪の事実とは公訴事実に同一性があり、器物損壊罪を認定するにつき被告人の防禦になんら実質的不利益を与えないので訴因変更の手続はしない)。

よつて主文のとおり判決する。

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